大河ドラマ「平清盛」

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院政

院政とは、在位する天皇の父親や祖父などである上皇が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治をいう。上皇は院と呼ばれたため、院政という。藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位したことで摂関政治の支配力が弱まると、その息子である白河天皇は1086年に堀河天皇へ譲位し、上皇となったが、幼帝を後見するため、引き続き政務に当たった。これが院政の始まりであるとされている。1107年に堀河天皇が没すると鳥羽天皇が4歳で即位し、白河上皇の院政は、更に強化された。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣などの命令文書を発給。また、上皇独自の軍事組織として北面の武士を置くなどし、平家を主とした武士勢力の登用を図ったため、平家権力の成長を促した。

白河法皇

保元の乱(1156年)

皇位をめぐる争いと藤原氏内部の勢力争いが結びついて起きた戦乱。鳥羽法皇の死後、後白河天皇・関白藤原忠通の天皇方と、崇徳上皇・藤原頼長(藤原忠通の弟)の上皇方との争いがおきた。上皇方は源為義らの武力を擁して天皇方へと挑んだが、平清盛・源義朝らを擁した天皇方による夜襲によって敗れた。この戦いは、院政の混乱と武士の進出を示し、平清盛・源義朝らが中央政界へと進出するきっかけとなった。しかし、保元の乱の後に信西の主導で行われた論功行賞により、清盛よりも低い官位しか与えられなかった義朝の心に遺恨が芽生えたことが、後の平治の乱へと繋がっていくことになる。

平清盛

平治の乱(1159年)

後白河天皇が二条天皇に帝位を譲って院政を始めると、側近の信西と藤原信頼の対立が激化。藤原信頼は、信西や平家の台頭に不満を持っていた源義朝と手を組むと、平清盛が熊野に出かけた隙を狙い「反信西派」を掲げて挙兵した。後白河上皇と二条天皇を幽閉して実権を握ると、信西も逃亡先で自害。勝利を掴んだかに見えたが、京に戻った平清盛によって藤原信頼・源義朝軍は敗れ、藤原信頼は斬首、源義朝は逃亡先の尾張で討ち取られた。この戦乱により、「平家にあらずんば、人にあらず」とも言われた平家一門の世が始まるのである。

平清盛

壇ノ浦の戦い(1185年)

平治の乱で伊豆へ流罪となった源頼朝であったが、1180年に平家打倒を掲げて挙兵。頼朝の弟・源義経を大将とする源氏軍は、一ノ谷・屋島の戦いで平家軍を打ち破ると、平家一門を壇ノ浦へと追い詰めた。500隻の軍船で迎え撃った平家軍は、始めは優位に戦いを進めていたが、日が落ちるにつれ潮の流れが変わり、一変して義経軍が優位となった。平家軍の敗戦が濃厚になると、平清盛の妻である二位の尼(平時子)は8才の安徳天皇を抱えて入水し、大将である平宗盛も捕らえられ、平家は滅亡した。

壇ノ浦の戦い
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