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明治維新。それは多大な犠牲を払った近代日本の「革命」だった。

「幕末」という15年間の内乱を経て

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戊辰戦争の戦闘のひとつ「上野戦争」。西郷隆盛や大村益次郎の率いる新政府軍が、現在の上野公園を舞台に彰義隊を壊滅させた。国史画帖大和桜より

明治維新。それは、明治政府によって新しい時代が築かれるにいたった、一連の改革(革命)のことです。この革命は、日本が世界有数の大国へ成長を遂げる契機をつくったといわれています。

明治維新が起きたのは、約260年も続いてきた江戸時代(1603~1867年)の末期、いわゆる幕末(徳川幕府の末期)に起きました。よく知られる「ペリー来航」(1853年)から「大政奉還」(1867年)までの15年間のことです。

それまでの日本は、平清盛や源頼朝が活躍した平安時代の後期から数えると700年以上も「将軍」が日本を支配した武家政権、いわゆる「武士の世」が続いていたのです。幕末には、この「武士の世」を終息させようという流れが起きていました。

江戸時代の終焉を象徴した事件が「大政奉還」です。これは、徳川幕府の最後の将軍(15代)徳川慶喜(よしのぶ)が、政権を朝廷に返上した政治事件のことです。とはいえ、これは形式上のことで、その後も慶喜の独裁制は維持されました。それに不満を覚えた倒幕派の公家、岩倉具視(いわくら ともみ)らが明治天皇を擁して、「王政復古(おうせいふっこ)の大号令」を発し、慶喜から実権を取り上げ、幕府の完全消滅を宣言しました。時に1868年1月、ここに「明治新政府」が樹立されたのです。これが「明治維新」の始まりでした。

しかし当時、国内には徳川慶喜をはじめ、旧幕府勢力が残存していたため、「倒幕」の旗を掲げる明治新政府と、旧幕府勢力との間で「戊辰(ぼしん)戦争」が起こります。新政府軍は薩摩藩・長州藩・土佐藩など「倒幕派」を中心とした諸藩の連合軍。一方の旧幕府軍は会津藩・桑名藩に加え、それに同調した東北諸藩などの「佐幕(さばく=幕府を助ける)派」が中心でした。

この「戊辰戦争」は、明治新政府が勝利し、旧幕府勢力は滅びます。その途上、西郷隆盛が勝海舟の提案を受け、江戸総攻撃を中止したことで名高い「江戸無血開城」で、江戸の町だけは戦火を免れました。しかし、戦線は上野から東北へ移り、会津や長岡などの東北諸藩は新政府軍の猛攻を受け、多くの犠牲を払ったのです。戦乱は翌1869年6月の箱館戦争の終結まで1年半にわたって続きました。この内乱を制した明治政府が新時代の担い手となったのです。

天皇が京都から、新都「東京」へ移る

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明治元年、東京城と名を改められた江戸城(現在の皇居・伏見櫓)

明治時代を象徴する大きな出来事といえば、天皇の東京奠都(とうきょうてんと)でしょう。1868年(明治元年)9月20日、明治天皇は京都御所を発し、10月13日に江戸城へ入りました。徳川幕府の本拠地だった江戸城は「東の京都」を意味する東京城と改められ、のちに「皇居」となったのです。古来、「千年の都」といわれた京都から東京へ、完全に首都機能が移ったのもこの時でした。今から、ほんの150年前です。

先の「王政復古の大号令」により、政府は明治天皇を頂点とした中央集権の国づくりを始めました。そして西洋技術・文化の輸入に努め、文明開化、殖産興業政策を進めていきます。また「国民皆学」のスローガンのもと、学校教育に力を入れました。教育を振興し、経済を発展させて国力をつけ、軍備の整備を進める。いわゆる「富国強兵」です。これによって欧米に負けない国づくりを目指し、日本の近代化は進められていきました。

中央集権化は社会システムも大きく変えます。まだ各地方には、江戸時代のままの制度である大名(藩主)が治める「藩」が存在し、独自に税を徴収するなどの地方分権制がとられていました。これを新たに「中央政権」である東京に集約しようとしたのです。

政府は藩を廃止して新たに県を置きます。藩主は東京へ集められ、罷免を申し渡されます。代わりに政府から県令が派遣され、後に「知事」となりました。これが1871年(明治4年)に行なわれた「廃藩置県」です。

次に、政府は古い身分制度を廃止します。皇族以外はすべて平等という方針のもと、公家と大名を「華族」、大名以外の武士を「士族」に、農民と町人らを「平民」に改めました。このとき、平民も初めて「鈴木」や「田中」など、名字を名乗ることが許され、また華族や士族と結婚することも認められたのです。いわゆる「四民平等」政策です。一方で、政府は士族に与えていた秩禄(ちつろく)という給与を廃止し、「廃刀令」の公布によって、刀を取り上げました。

「維新の十傑」も半数以上が犠牲になった

政府はさらに政策を進めます。「国民皆兵」という概念のもと、天皇直属の軍隊をつくるための「徴兵令」が導入され、士族・平民の区別なく、20歳に達した男子に3年の兵役を強いました。こうした改革は、士族(旧武士)への弾圧であり、彼らの存在意義を否定するものでした。次々と既得権益を奪われた士族たちは反発し、各地で暴動を起こしましたが、政府はこれを武力で鎮圧しました。

一連の近代化・四民平等政策を推し進めていたのは岩倉具視、木戸孝允、大久保利通たちです。しかし、一方で急速に過ぎる改革への反発や、彼らと意見を違えた者たちからの不満が噴出していました。

その反体制側の代表が西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らです。彼らは1873年(明治6年)に起きた征韓論に端を発する政争により、辞表を出して国許へ帰ってしまったのです。結果、各地で新政府に反発する自由民権運動や士族反乱が起き、それは1877年(明治10年)の「西南戦争」終結まで続きました。ことに西郷隆盛が指導者として決起した「西南戦争」は、政府軍と薩摩軍の両軍で動員数が10万人にも膨れ上がった、「最後の内戦」とされる大規模なものでした。

明治維新で活躍した人物たちのうち、「維新の十傑」と呼ばれた人々がいます。それは、西郷隆盛(薩摩)、大久保利通(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、大村益次郎(長州)、木戸孝允(長州)、前原一誠(長州)、広沢真臣(長州)、江藤新平(肥前)、横井小楠(肥後)、岩倉具視(公家)の10名(『維新元勲十傑論』より)です。しかし、革命児であったはずの彼らのうち7名は明治11年までに暗殺または刑死・戦死という無惨な最期を遂げています。明治政府は内乱に次ぐ内乱により、最初の10年間は混乱を極めたのでした。

なぜ、革命は急がれたのか?

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西南戦争で戦死した西郷隆盛。死後10年ほどを経て明治天皇により名誉を回復され、明治31年に東京上野に銅像が、昭和12年には地元・鹿児島に銅像が建った。

なぜ、それほどまでに急速な改革が必要だったのでしょうか。それは、やはり「ペリー来航」から続いた欧米諸国の帝国主義による外圧の脅威を、当時の政治家たちが痛感したからに他ならないでしょう。また、ペリー来航以前には「アヘン戦争」(1840年~)もありました。アジアの大国であった清(中国)が、イギリスの軍事力に屈し、香港を植民化されて賠償金の支払いなどを認めたことが、日本にも大きな脅威となったのです。

幕末に盛んに唱えられた攘夷運動も失敗し、欧米との圧倒的な軍事力の差を見せつけられたのも大きな原因だったでしょう。

独立した強い国家として、新たな体制で列強諸国と渡り合っていかなければいけない……その危機感の表れが、あの期間に集約されたのです。明治維新は、わずか四半世紀で大きな成功を収めた近代化革命として世界にも注目されました。しかし、それは多くの犠牲のもとに成り立ったということを、忘れてはならないでしょう。

文:上永 哲矢(うえなが てつや)

歴史文筆家。日本史および『三国志』を生業とするほか、旅と温泉を愛する紀行家としても活動。
著書に「三国志 その終わりと始まり」(三栄書房)、「密教の聖地 高野山」(三栄書房)、「ひなびた温泉パラダイス」(山と溪谷社)。

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